家に帰ってからも、ヘンリーは私の側を離れなかった。
どこへ行くにもついてきて、嬉しそうに私の周りをぐるぐると旋回している。
ちょっと移動するだけでもピタリとくっついてくる。トイレへ行くときでさえ、ドアの外で待っているという状態だった。いい加減、私の我慢も限界に達してきた。
「ヘンリー、いい加減にして」
「え?」 「私にもプライベートがあるんだから。そんなに四六時中一緒にいられたらストレス溜まるよ」少し強い口調で言うと、ヘンリーはきょとんとした表情をして私を見つめた。
「流華……僕と一緒にいるの、嫌?」
可愛い瞳を向けるヘンリーから視線を逸らし、私は思い切って想いをぶつける。
ここでしっかり自分の気持ちを言っておかないと、ヘンリーはどんどん調子に乗ってエスカレートしていく気がしたから。「嫌とかそういう以前に、これだけべったりくっつかれたら迷惑だよ。
ヘンリーは王子だから今まで何でも許されてきたのかもしれないけど、もう少し人の気持ち考えた方がいいんじゃない?」少しきつく言い過ぎたかな?
横目でヘンリーの様子を窺うと、ヘンリーは黙り込み下を向いていた。ゆっくりと顔を上げたヘンリーの表情には、いつもの明るさはなくなっていた。
潤んだ瞳、沈んだ悲しげな表情、眉は八の字で口はへの字に曲がっている。
「……ごめんなさい」
小さな声でそう言うと、ヘンリーは私に背を向け静かに歩き出す。
「あ……」
その後ろ姿があまりにも寂しそうで、なんだか抱きしめたい衝動に駆られてしまった。
しかし、ここで甘やかしてしまうと逆戻りだ。 ここは我慢だ。私は伸ばしかけたその手を引っ込めた。
「……つまんないテレビ」夕食を食べ終えたあと、居間でテレビを見ていた私はぼそっとつぶやく。
とくに見たいテレビがあるわけでもなく、映った番組を適当に見続けていた。いつもならヘンリーが私の周りをウロチョロして、話したり、ちょっかいをかけてくる。
それを発見した龍が怒って、ヘンリーと喧嘩を繰り広げるという光景が最近の私の日常だった。たった数日の出来事が、もう私の日常に溶け込んでいたことに驚く。
自分で突き放しておいて、ヘンリーが側にいないことをこんなに寂しいと思うなんて。
私はなんて勝手な女なんだ。大きなため息が口からこぼれた。
「どうした?」
祖父の大吾が私の前に現れた。
酒の瓶を片手に持ち、もう片方の手にはグラスを持っている。ニコニコと微笑みながら、祖父は私の隣に腰を下ろしてきた。
「流華、元気ないじゃないか」
祖父はグラスに酒をなみなみと注ぎ、それをグイッと飲み干した。
「あー、うまい! 人生これがないとつまらん」
本当に幸せそうな祖父の顔を見て、私はふてくされた。
「おじいちゃんはいいね、すぐ幸せになれて」
私の不遜な態度を祖父は軽快に笑い飛ばす。
「人生なんて自分が思った通りになるんじゃぞ!
自分が幸せだと思えば幸せ。不幸だと思えば不幸。そのとき思ったことが現実になる。 起こった事実は変わらんが、どう捉えるかは自分が選べるからな」祖父の優しい眼差しが私を射抜く。
この人は、たまにすごく良いことを言う。だてに年を取ってはいないということか。「さて、流華。なんでそんなつまらなさそうにしておるのかな?」
ぐいっと祖父の顔が私に近付いた。
祖父の笑顔が私の心をほぐしていく。
いつもすべてを打ち明けてしまえ、という気持ちにさせる不思議なパワーがこの笑顔にはあった。「……ヘンリーに酷いこと言っちゃった」
「ほう、どんな?」 「迷惑だ、って。……あまりにもずっと私にくっついてくるから。もっと人の気持ち考えろって、言っちゃった」 「ふーん」 「私酷い?」 「さあなあ……後悔しとるのか?」 「……うん」私の返答に、祖父はニヤッと笑った。
「じゃ、謝ればええ」
「え……」 「あれじゃな……ヘンリーも流華も似とるよ」祖父の言葉に私はポカンと口を開けた。
私とヘンリーが似てる?
「人との距離感がわかっとらん。
お互いに今まで人と対等に接してこなかったから、どのように人と距離を取ればいいのかわからんのじゃ。 ヘンリーは近づき過ぎて失敗。流華は遠ざけ過ぎて失敗。ちょうどいい距離がお互いわかっていない。 二人は似とるよ。今まであまりそういうことが無かったんじゃな。 これから、二人で学べばええ。まだ若い、これからじゃ。 ヘンリーはいい奴だ、わしは好きじゃよ。仲良くしなさい」祖父は私の頭をよしよしと撫でた。
小さい頃から何百回とされてきたこの行為。
祖父の手はとても大きく温かい。 この手で撫でられると、とても心地がいい。私が照れくさそうに笑うと、祖父は優しく笑いかけてくれた。
挨拶を終えた龍は、忙しそうに台所へと戻っていく。 今も魚の皿を手に、居間の机へと料理を運ぶ途中だった。それを置くと、すぐにまた台所へ引き返していった。 朝食の準備に追われているみたい。 私と祖父の食事は、いつも龍が作ってくれている。 彼が家に来たときから、ずっと。 率先して家事をしてくれる龍。 私、家事は苦手だからほんとに助かる。 それに、龍の料理は超美味なのだ。 いつも、家庭的な料理を、手際よく華麗に食卓へと並べていく。 龍って、なんでもできるんだよね。 家事全般、お手のもの。 料理、洗濯、掃除——主婦も顔負けだ。 もちろん、私も負けてる。 朝の支度を整え、居間に向かう。 机の上には、三人分の朝食が所狭しと並べられていた。 白いご飯に、お味噌汁、焼き鮭、お漬物、そして納豆。 まあ、朝から豪華だこと。 目を輝かせていると、後ろから祖父の声が飛んできた。「流華、そんなところに突っ立ってないで、座りなさい」「はーい」 いつもの席に座ると、祖父も向かいに腰を下ろす。 私の隣には、龍の料理も並べられていた。 三人で揃って食卓を囲むのが、毎朝の日課だ。 祖父は龍が淹れた熱々のお茶をすすりながら、真剣な表情で新聞に目を通している。 いつものおちゃらけた顔とは、まるで別人。 こういうときは「さすが組長だな」と思わなくもない。 祖父は如月一家の組長、如月大吾。 組の人たちからは恐れられているらしいけど、私にはただの優しいおじいちゃんだ。 よくおふざけが過ぎるときもあるけど、祖父いわく、それも愛嬌……らしい。 たくさんの愛情を注いで、私を大切に育ててくれた。 本当に尊敬しているし、大事な家族だ。 「いただきまーす」 準備が整い、龍も席に着いたところで、三人そろって合掌する
ヘンリーたちと別れ、早一年が経とうとしていた。 あれから、私と龍とおじいちゃんは、ヘンリーたちとの思い出を胸に仲良く暮らしている。 平穏な、普通の毎日。 ……違うことと言えば、私と龍が付き合ってること、くらいかな。 龍のことを思い浮かべると、自然と口元がほころんでしまう。 ちょうどそのとき、廊下の向こうから龍が歩いてくるのが見えた。 その姿に胸が少し高鳴り、心がふんわりあたたかくなる。 目の前に来た龍は、私に優しく微笑んだ。「おはようございます、お嬢」「おはよう、龍」 え? なんで流華じゃなくて、お嬢かって? そう、せっかく呼び方が「流華」に進化したかと思ったのに。 いつの間にか日常では「お嬢」に戻っていた。 二人きりの甘い時間のときだけ、「流華」って呼んでくれるんだよね。 まったく、もう。 彼は、神崎龍之介。通称、龍。 私の恋人であり、組の若頭。 ……組っていうのは、うちが極道一家だから。 私は如月家組長の孫娘、如月流華。 幼い頃に両親が亡くなってからは、祖父に育てられた。 だから、ごく普通の女子高生……ではなかった。 極道の世界で生きる人たちと暮らし、学校や世間からは、ちょっと距離を置かれている。 それが私の日常。 いろいろあって、龍と付き合うことになったんだけど……。 自分の気持ちに気づくまでが、長かったんだよね。 最初は龍への気持ちに気づけなくて。 でも、親友の貴子の助けや、ヘンリーの存在。 いろんな人に背中を押してもらったおかげで、ようやくわかった。 あ、ヘンリーっていうのは、私に会うためにタイムスリップしてきた王子様。 過去生で私と恋人同士だった彼は、その想いが強すぎて、恋人の生まれ変わりである私のもとへ……。 っていう、もうほんと信じられないような出来事があった。 彼が現れてからは、私の周りは
私はベッドの上で、深い眠りについていた。 時刻は、真夜中の丑三つ時。 ――ゴトッ、と物音が聞こえた。 ガバッと上半身を起こす。 え、今の音……何? 暗闇に神経を集中させ、耳を澄ませる。 何を隠そう、私はかなりの怖がりだ。 幽霊の類は超苦手。 真夜中、静寂、暗闇、物音。 こんなに怖い条件がそろっていて、何事もなかったように眠れるわけがない! 私はバクバクする胸を押さえながら、キョロキョロと辺りを見渡す。 けれど、月明かりに照らされた部屋は、見慣れた風景のまま静まり返っている。 特に変わった様子は、ない。「き、気のせいか……そうだよ、きっと気のせい」 無理やり結論づけると、さっきまでの恐怖をなかったことにしようと布団に潜り込んだ。 ――ゴトゴトッ。 さっきよりも大きな音が、部屋の中に響く。 ひぃー! 助けて、ごめんなさい! 恐怖が絶頂に達した私は、何に謝っているのかもわからないまま、ひたすら心の中で謝り続けた。 頭から布団をかぶり、目をぎゅっと瞑りながら、念仏のように「ごめんなさい」を繰り返す。 そして、ふと思う。 あれ? ちょっと待て。 今の音……どこから聞こえた? おそるおそる布団の隙間から顔を出し、音のした方向へ視線を向ける。 机の引き出し。 あの辺りから、だよね? その引き出しには、あの指輪がしまってある。 そう、ヘンリーから貰った指輪だ。 ごくりと生唾を呑み込み、私は意を決して布団から抜け出した。 そろりそろりと、机へと近づいていく。 机の前に立ち、引き出しをじっと見つめる。 震える手を伸ばし、恐る恐る取っ手に手をかけた。 ええい! 思い切って引き出しを開けると、その瞬間、強烈でまぶしい光が溢れ出す。 部屋の中は、昼間のように真っ白に照ら
しばらくすると、アルバートがヘンリーの様子を見に部屋へ戻ってきた。 音を立てないように、そっとドアを開け中へと入っていく。 ソファーの上では、ヘンリーが幸せそうな顔でスヤスヤと眠っていた。「おやおや、しかたない方ですね」 アルバートはヘンリーの体にそっと毛布をかける。 そのとき、ヘンリーの頬に涙の跡があることに気づいた。「ヘンリー様……」 起こさないように、アルバートはヘンリーの頭をそっと優しく撫でた。「苦しいでしょうが、頑張ってください。私がついております」 その寝顔を見つめながら、アルバート自身も流華たちとの日々に思いを馳せた。 懐かしく、騒がしくも目まぐるしい……。 しかし、とても充実した、幸福だった日々。「大丈夫、いつの日かまた会えます。その日を夢見て待ちましょう……」 そのとき、窓から射しこむ優しいひだまりと、暖かな風が二人を包み込む。 それは流華たちとの日々のようだった。 あたたかくて、幸せな―― 二人は幸せな夢を見る。 大好きな人のことを思い出しながら。 ◇ ◇ ◇ 「え?」 一人部屋にいた私は、なぜか誰かに呼ばれた気がして振り返った。 しかし、誰もいない。 当たり前だ、ここは私の部屋で、今は一人なのだから。 ふと、ヘンリーのことを思い出す。 彼らは元気で暮らしているだろうか。 そのとき、コトッと物音がした。 そこは、あの大切な“もの”をしまった場所。 私はそっと机の引き出しを開けた。 そこには、ヘンリーから貰った指輪が置いてあった。 小さな箱を手に取り、高鳴る胸とともに箱を開く。 可愛らしい指輪が姿を現すと、その指輪が一瞬輝きを増した。「……ヘンリー?」 もちろん返事はない。 でも返事をしてくれているような気がした。「お嬢ー、朝ごはんができましたよー」 下から龍の声が聞こえる。「はーい! 今行くー」 私は指輪にそっと触れると微笑んだ。「行ってきます」 元の場所へ指輪を戻すと、私は部屋を出て行った。 ヘンリー、私はあなたのことを決して忘れない。 だって私が時を超え、愛した人だから。 今は違う時代を生き、違う人を愛しているけれど。 きっと、またあなたと出会える。 何度も、何度でも、きっと…… 大切な思い出を
時は遡り、十九世紀後半―― 場所はイギリス。 王宮内にある一室から、王子の嘆きが響き渡っていた。「あーあ、つまんないっ」 ヘンリーはムッとした表情をしながら、やわらかそうなソファーにドカッと座る。 広い部屋には大きなベッド、豪華な机とソファー、いくつかの本棚が備え付けられている。 床に散乱しているのは、大きな動物のぬいぐるみたち。 これはヘンリーが寂しくないようにと、アルバートが配慮し用意したものだった。「ヘンリー様、いつまでもそのような態度ばかり……いい加減、大人になってください」 散らかった部屋を片付けながら、アルバートが辟易した様子でヘンリーに声をかけた。 流華と別れてから、ヘンリーはずっとこんな調子だ。 以前のように笑うことも減り、いつもつまらなそうな表情を浮かべている。 アルバートにはその理由がわかっていたが、ヘンリーのためにも流華のことを忘れさせようとしていた。「そうだ、ヘンリー様。 今日もシャーロット様が遊びに来る予定ですよ」 アルバートが嬉しそうな微笑みをヘンリーに向ける。「ふーん、あ、そう」 ヘンリーは相変わらずな仏頂面だ。 その様子に、アルバートは大きなため息を吐く。 持ってきたある物をヘンリーに見せつけながら言い聞かせた。「シャーロット様がお嫌なのでしたら、こちらの方はどうですか?」 それはお見合い写真だった。 とても綺麗な女性がにこやかな表情で映っている。 かなりの美少女だ。 そんじょそこらの町娘とは格が違う。 綺麗で艶やかで色気もある。王家に相応しい気品と美しさを兼ね備えた女性。 近隣諸国のどこかの姫らしい。 普通の男なら大喜びするだろう、しかし……。 アルバートはこっそり、ヘンリーの態度を観察する。 写真をちらりと見たヘンリーはすぐに顔を背けた。「&h
「ヘンリーたち、元気かなあ」 夜空の星を見上げながら、私はふとつぶやいた。 この世界とヘンリーの世界は繋がってはいないけれど、夜空に輝く星を眺めていると、想いは繋がっているような気がしてくる。 つい懐かしくて、ヘンリーたちの顔が頭の中に蘇った。 私のお気に入りの場所、縁側。 大きく伸びをして、空気を胸いっぱいに吸い込む。 気持ちがよくて、大きく長い息を吐いた。 龍が用意してくれたお茶を一口飲む。 温かくてほっとする。心も安らいでいくようだ。 はあ、幸せ。「あの人たちなら、きっと元気ですよ。 いつも煩いくらい騒々しい人たちでしたから」 隣に座っている龍が私に微笑みかけ、一緒に夜空を見上げる。 月明りに照らされた龍は、なんだか色気があって……その横顔にまた見惚れてしまう。 その視線に気づいた彼が、こちらを向く。 視線が交わった途端、慌てた様子で咳き込んだ。「お嬢、そんな見つめないでください……恥ずかしいので」 真っ赤になってしまった龍に、今度は私が噴き出す。「龍ったら、本当に見た目によらず乙女だねえ。可愛い」「なっ!」「あ、これ褒めてるんだよ。私だけに見せてくれる龍、嬉しいから」 私が可笑しそうにケラケラ笑うと、龍はたじたじという顔をしながら目を泳がせた。 愛しい人……私の王子様。 やっと気づけた、この気持ち。 嬉しくて、目を細めながら龍を愛おしく見つめる。「お嬢……その顔は反則です」 龍は顔を真っ赤にしながら、何かに耐えるように苦しげに眉を寄せた。 え? 私どんな顔してたの? 恥ずかしいっ。 顔が熱くなる。 きっと私も顔が赤くなっているに違いない。 恥ずかしくなってきて、私は龍から顔を背けた。